キューブログ

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から揚げにレモンを掛けるのか

どうも。お久しぶりです。

先ほど見てたテレビでは町行く人々に様々な2択を迫っていたのですが
その中の一つの質問にふと思い返すことがありブログを更新しています。

その質問というのが表題「から揚げにはレモンを掛けますか」です。
比較的使い古された質問で、だいたい模範解答的なものも既に存在しています。

賛成派
・美味しいのだから面倒な手間を掛けずさっさと全体にかけてしまいたい

反対派
・その味を好まない人もいるのだから全体にかけるのはやめて欲しい
・やるならば個人の取り皿だけでしてはどうか

たいていのこの質問では賛成側を「思いやりのない勢いだけの行動」と指摘し
そんな安直な行動は慎むべきだとたしなめ、逆に反対側は自然な主張であると
納得を集めて答えがまとまります。果たしてそれだけでいいのでしょうか?


もっとこの問題は奥深い。今日はそこを掘り下げてみたいと思います。
そもそも賛成派の主張では場はどうなるでしょうか。
から揚げ全体にレモンが振り撒かれるため、食べられるのはレモンから揚げだけ。
つまり「レモンの掛かっていないから揚げを食べる権利」は完全に失われてしまう。

では逆に反対派の主張ではどうなるでしょう。
から揚げ全体は依然とそのままを保ち、個人の嗜好でそれにレモンを掛けたり
あるいは酢醤油だったりからしだったり、はたまたそのままで食されるでしょう。
つまり「レモンを掛けたから揚げを食べる権利」はそのまま存在している。


ここに重要な差異が存在しています。二つの選択肢はそもそも対等ではなかった。
あえて正確に問い直すなら「から揚げ全体にレモンを掛けるか、レモンを禁じるか」
というのが本来あるべき選択肢だったと言えるでしょう。

そしてそれを踏まえれば反対派はその主張の中で、生まれながらにして
賛成派に譲歩していると言えるのではないでしょうか。具体的には
「レモンを置いてもいいし、使っても構わないが」自分はそれを使わないのだ、と。
このような譲歩を私はここで「構造的な譲歩」と定義したいと思います。

このような構造的な譲歩は、実は世の中の様々な問題の中にも見られるものです。
から揚げとレモンとは、この例をわかりやすく説明してくれるいい題材でした。



この種の隠れた譲歩はむつかしい政治問題から日常の小さないざこざの中にまで
双方の主張の中に見えづらい形をとって確かに存在しているように思われます。

例えば普天間問題では反対派は「国外、最低でも県外」に移設して欲しいのに
辺野古に移設しようとするから反発するのであり単純に「基地」に反発していると
短絡化して物事を考えるべきではありません。(注1)

私たちは相互の主張の背景を本当に理解できているでしょうか?

私たちが大切にするべき事とは、自分の主張と対比される相手の主張がすでに
構造的な譲歩によって歩み寄られたものではないか、という点にアンテナを向け
相手に過剰な妥協を迫ってはいないかと考えられる視点を持つことです。

この構造について知ることで、種々の問題をより正しく理解できれば素敵ですよね。



(注1)
単純に構造的な譲歩が透けて見える一例として引用しただけであり
立地的にもそこが好適であるとか、アメリカ側の需要だとか考慮すべき点は
たくさんあるため単純に辺野古への移設が悪いと主張する意図があるわけではない。
またもちろん反対派の理屈がこれだけではないことも併記しておく。